400thEpisode

庶民の芸能

上野由部

(公益財団法人黒川能保存会 業務執行理事)

黒川能…豊かさのはじまり(酒井家が庇護した地域芸能)

元禄2年(1689)10月、黒川は、四所明神(黒川春日神社)の大祭(王祇祭)に向け、詰めの支度にかかろうとしていた。そこに庄内藩4代藩主酒井忠真公より、上覧能の打診が大庄屋釼持九郎左衛門に届いた。急ぎ肝煎・組頭、上座下座の能太夫などが集まり、談義するも返答に悩んでいた。

黒川に能が伝えられたのは室町中期以降、鎌倉時代から庄内を治めていた武藤氏の力が背景にあり、四所明神の祭事のたびに神事能として演じられていた。しかし、応仁の乱を皮切りに全国に戦乱が巻き起こり、庶民の生活も困窮していった。黒川能も戦国の世に弱体化し、4日間連続で行われていた大祭も慶安4年(1651)に2日間にするなど、日々の生活も貧していた。上覧能のお声がけを名誉に思うも、能役者は両座合せて60名程度、演じることのできる能は10番ほど、狂言を演じる者が今はいない、登城に際しての着衣もままならないという状況だった。そこで黒川の状況を包み隠さずお伝えし、費用等の借用を藩に乞い願った。

能は徳川家康が好んだことから武家の式楽とされ、いずれの藩も能役者を抱えるようになっていた。庄内藩主初代酒井忠勝公は庄内に入部した元和8年(1622)に四所明神を安堵され、黒川も酒井家には事あるごとに礼を尽くしていた。家臣からは謡本や面を賜っていることから、黒川能の存在もすでに承知していたようだ。酒井家にはお抱えの能役者もいたが、上覧能をあえて黒川に白羽の矢を立てたのだった。酒井家は黒川の願いを聞きいれ、12月18日、上覧能について正式な御沙汰が黒川に届いた。実施は翌元禄3年1月25日、能は式3番ほか7番、狂言は鶴岡の町人が演じるとのことであった。

元禄3年1月1日・2日、黒川では例年のごとく四所明神の大祭を行い、能役者たちは休む間もなく上覧能の稽古に励んだ。1月11日には酒井家お抱えの能役者藤野清三郎が黒川に入り稽古の様子を見分し、高く評価して上覧能に値すると藩主にお伝えしたようだ。そして1月25日、城中黒木書院に据えられた舞台で1日がかりの演能が行われた。黒川以外での初舞台、それも藩主の御前で演じる役者たちの心持は、神前以上のものだったに違いない。また、酒井家が役者たちに用意された食や米百俵と能の諸道具の贈り物など、心遣いは余りあるものだった。黒川に帰った役者たちは、これも四所明神のご加護と神前で能を演じ奉告祭を執り行った。

以降、新しい藩主がお国入りする折に合わせて黒川能の上覧が催され、明治を迎えるまで10回ほど行われ、その都度能の諸道具などを賜った。酒井家から拝領された貴重な装束や面は令和の現代でも舞台で活躍している。上覧によって黒川能は広く知られるようになり、家臣の屋敷での演能や田川・飽海地域からの依頼によりあちこちで演じている。さらに、奉行所の許可を得て自主公演も数多く行っている。こうした演能は酒井家の寛大な措置によるものでもあり、明治以降黒川能が生き続ける力にもなっている。黒川は酒井家の新田開発による米の収穫も増し、黒川能とともに地域全体が豊かになっていった。また、能を稽古することは、精神や知力が鍛えられ、豊かな人間形成にも繋がっている。これらも酒井家の庇護によって育てられたものであり、現在も息づいている。

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