400thEpisode

庄内の磯釣り文化

村上龍男

(鶴岡市立加茂水族館 名誉館長)

侮るなかれ、釣りってえ物は恐るべしだな

今年の雪はひどかった我が家でも久しぶりに屋根の雪下ろしを覚悟したほどだった、しかし分厚く積もった雪もみるみる融けて以外にも春の訪れは早そうだ。

81にもなった年寄りにもまた希望の春が巡ってきたようだ、この年になってみて思うのだがこの世にあまり未練はないのだ、強いて言えば、、、「そうだなもう少し釣りをしたい、、、」これがこの世にのさばっている唯一つの未練かもしれない。

50年近くも務めた水族館を引退してもう6年になった、どなたも最後に出会ったクラゲを私とだぶらせて思い描くかと想像するが、しかし私にとってクラゲは長い水族館生活の一コマに過ぎないのだ。

一番大きな存在としていまだに体に刻み込まれているのは前述の釣りだ、昔を振り返ってみれば、水族館で働き始めた昭和41年は江戸時代から連綿と伝わってきた「庄内の磯釣り文化」が、まさに終わろうとして最後のあだ花を咲かせていた真っ最中だったといえる。

朝に人と出会えば「どげでした?」「イヤー加茂荒崎の電気下でいいクロを上げました」、、、とまあこんな挨拶がいたるところで交わされていた。

村上氏自作、4間竿でのクロダイを釣り

釣りをしない男は「おめ、、どごが悪いあんだがー」と聞かれるほど誰でも釣りをした、みんなが中通しにされた庄内竿をもって釣りにいそしんでいた、9月~10月の今泉海岸には土日になると「芋煮会」を兼ねた磯釣りのグループが、朝早くから場所取りをしていたし、小学校の釣り遠足も盛んにおこなわれていた。

クロダイ釣りが上手だというだけで皆から尊敬されたのだから、いい時代だったことは間違いない、、、あの釣り文化がその後に訪れた自家用車の普及や、細身でよくしなり庄内竿をほうふつとさせたカーボン製の竿が売り出されたり、釣りの案内書がどこででも手に入り、師匠なしでも翌日には一人磯に立てる便利な世になって途絶えてしまった。

あっという間に庄内の磯釣り文化を根絶やしにして、今加茂の磯を覗いても日本中どこに行っても変わり映えのない、ごく普通の釣り姿を見るだけになってしまった。

しかし今の若い者に、300年続く武士の釣りとして栄えた庄内の磯釣り文化は「孔子の教えにも勝る人間教育の場」だったことを、私なりの解釈を通して紹介してみたい。

武士の釣り発祥のきっかけは、京保6年に第7代の酒井忠真公が(1718年)温海温泉に湯治に行って暇のつれずれに、奥様同伴で浜遊びをし磯釣りをしたのが始まりとして記録が残されている。

「酒井忠器像」酒井神社所蔵

その後歴代の殿様が温海温泉に湯治に行って、磯釣りにいそしんだ記録も旧温海町資料館に現存している。

特筆したいのは9代目の忠徳公(1755~1812)で、17才の明和9年(1772年)9月に「公は久しぶりに江戸から庄内に帰ったので骨休めにお出になった模様、、、」とあり、温海温泉に湯治に出かける前触れを出している。

・お釣り場には3間はしごを掛け、大幅の板を載せておくように
・先年お釣りになった所は止め場として何者の殺生も禁ずること
・エビの御用があると思われるので、何人たりともエビの捕獲を禁ずること
・釣り針400本、うち150本はテンコウ針、250本はタナゴ針
・糸具150本、1本の長さ1丈2尺
・魚付きの良いところ4~5か所に殺生禁断の立て札をするように

忠徳公はこのように江戸から帰ると待ちきれずに、湯治、、とは名ばかりで磯釣りをするべく細かな指示を出している、此のことからも窺い知ることができるが,忠徳公はもう私と同じくらいの釣りキチと言っていいくらいのレベルだ。

「庄内浜磯釣りの図」鶴岡市立郷土資料館所蔵

ここから先は私の想像だが、、、、庄内藩の江戸屋敷には千石船が接岸できる掘割(運河)があったといわれている、魚釣りの場などは身近にあったと考えてもいいのではないか、そして「磯釣りに精通した庄内藩士」が詰めていたこと言うまでもない。

今とは違い周囲は自然が残る森や林があり、磯釣りと同等の扱いだった「鳥刺し」もできたはずだ。

江戸で生まれて育った忠徳公が居ながらにして庄内の磯釣りと、鳥刺しに触れてのめり込んでゆき、同好の下級武士たちと親交を結ぶ中で次第に世情に通じて、人脈を作りただの坊ちゃん育ちではない義理や人情、また苦しい領民の暮らしぶりに精通する素晴らしい人格を備えた人物に成長したのではないか、それでなくては御触れの意味を理解できない。

このことを具現してる忠徳公が施したのは、寛政6年に行なった驚くべき大事業が(1794年)庄内藩の「農政改革」だ、領民に累年貸し下げた米1万3千百表、金一万千3百両の「返済免除」を実施し、それと合わせて代官の才覚で貸し下げた米5万3百俵、金1万百両、そのほか名主や庄屋の才覚で貸し下げた多くの金員も免除や年延べ返済を実施、、、した。

いわゆる「徳政令」を発している、領内2郡の百姓は「大干ばつに慈雨」を得たような喜びようで、その仁政に感涙したとある、これが「寛政の改革」だ。

今の金額にしたら一体いくらになるのだろう、。何十億円、、何百億円になるのか計算できないのは残念だが、私だって30年以上も前に家を建ててうん千万円の借金をした、あれを返さなくてもいいと言われたらどうだろう、感涙にむせぶのは当然で末代までの語り草にして感謝するだろう。

その思いが後の世に窺い知ることができる、、、それから46年が過ぎた天保11年(1840年)「天保御国替え事件」があり、突然幕府より酒井公が越後の長岡に国替えを命ぜられた。

この時は領民がこぞって命がけの反対運動をして「一揆」を起こし、幕府の命令を変えさせるという飛んでもない出来事があった、この原動力になったのが「忠徳公の徳政令」にあったのは想像に難くない。
ならばそれから更に180年たった現代、あの徳政令は完全に消え失せてしまったのか、、、、どっこい今なお酒井家に対する尊敬の念は消えていない、それを証明できる出来事が平成17年にあった。

「平成の大合併」と言われた市,町、村の合併だ。くしくも山形県内で大なり小なり合併がなされたのは、ここ庄内の3地域のみだったではないか。
合併の交渉を進めた各市町村では最後の最後に、お互いの不信感がぬぐえず決裂の憂き目にあってまとまらなかった、庄内にはいまだに江戸の昔に領主だった酒井家が存在している。

キャプション

この「無言の安心感と郷土意識」がお互いを支えたから合併がなされたものだと私は解釈している。
一連の出来事の源をたどればそこには「庄内の磯釣り文化」がある、ただただ無心に海に竿を伸ばす、、、、しかしこれはただの趣味では無かったようだ、庄内人はみな300年前に武士の釣りに道を開いた酒井忠真公に感謝すべきだ。

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